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HSBCのBRICs&新興国情報

2011年09月21日

ブラジル日系移民向け医療

日本人がブラジルに移民として最初に渡ったのは今から100年以上前の1908年のことです。第一回移民として165家族781人が笠戸丸に乗船して、ブラジル南部のサントス港に上陸し、大方の移民はサンパウロ州のコーヒー・プランテーションに入植しました。その後、日本人移民はサンパウロ州及びその周辺の他、1929年からはアマゾン熱帯雨林でのゴム栽培の開発拠点となったマナウス周辺への入植が始まり、第一陣として43家族189人が入植しました。これらの入植地では、マラリアやアメーバー赤痢を始めとする熱帯性伝染病が猛威を振い、入植者達を苦しめました。その悲惨な様子は、北杜夫の小説「輝ける碧き空の下で」や、橋田壽賀子原作のNHKテレビドラマ「ハルとナツ」などで描かれています。

このような状況にある日系移民に対する医療体制が当初より問題となっていましたが、一部の会社経営による植民地の他は、日本語が通じる医師の数も病院も十分でなかったようです。ブラジルの医師免許を持たない日本人医師による医療行為が認められてなかったこともその原因となっていました。そのため、日本政府は1925年、リオデジャネイロの大学医学部に日本から4人を留学させています。また、このころから、日系移民向けの医療機関を設立する動きが持ち上がりました。

なお、黄熱病など熱帯性伝染病の研究で世界的に有名となった野口英世博士は、当時、米国ニューヨークで研究を続けていましたが、1923年に3ヶ月に亘りブラジルの各地で熱帯性伝染病の調査を行い、現地の医師や研究者との意見交換を行ったという記録があります。リオデジャネイロ市内には、「野口博士通り(Rua Doutor Noguchi)」があり、この有名な研究者の来伯がブラジルにとっても重要な意味を持っていたことが窺えます。
野口博士の他にも日系移民向け医療の向上に情熱を傾けた人たちが大勢います。

前述のように日系移民向けの病院を設立する構想が、サンパウロ在住の日系移民を中心に1920年頃から持ち上がり、日本政府からの補助金、皇室からの下賜金の他、日本やブラジルが募った寄付で建設資金を賄い、1939年に「日伯慈善会サンタ・クルース病院」が開院しました(同仁会ホームページなど)。しかし、日系移民向け医療体制が整ったのも、つかの間、第二次世界大戦のため1942年には、ブラジルと日本が国交断絶するに至り、敵性資産としてこの病院は接収されてしまいます(日系人の手に再び戻ってきたのは1990年のこととされています)。

アマゾンでの地域医療に尽くした先人もいました。細江静男医師は、1930年に外務省より嘱託医として派遣され、サンパウロ州で診療を行っていましたが、アマゾン地域での日系移民向け医療が絶対的に不足していることから、ブラジルでの医師資格を得るためサンパウロ大学医学部を卒業し、その後の生涯をアマゾンでの日系移民向け医療に捧げました。その志は娘婿と孫に受け継がれました。このように、日系移民のブラジルでの成功の陰に、大勢の日本の医療関係者の地道な努力があったことを忘れる訳にはいきません。

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